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最期の晩餐

人が死ねば、どうなるのだろう。

どうなるかを考えているこの思考も止まってしまうのか。

何もなくなる。それが死というもの。生きることが苦しければ、死は苦しみからの解放かも知れないが、そうでなければ、生きることに未練があれば、死は恐怖でしかない。

思考はどこから来る。命とは何か。血が巡る肉体、酸素で駆動される細胞、全身を駆け巡る電気信号。畢竟すればたかだか天然の粒子の塊でしかない。命とは何か。思考とは何か。それを人が小さな脳で研究したところで、原子であるとか、素粒子であるとか、分析してみたところで、いったい何を知ることができるであろう。

質量はエネルギーと相互に変換可能であると科学者は云った。物体とはエネルギーであり、或いはエネルギーの状態が、たまたま今その物体としての形を作っていると考えてもいゝ。原子力発電で失われる質量はほんの僅かであるという。それだけの質量で莫大なエネルギーが抽出できる。反対にエネルギーが一点に凝縮された状態が質量をもった物体である。

目の前に手のひらで掴めるぐらいの石がある。これを何とかして指先ほどの小さなケースに入れようとしても普通は入らない。でも何とか圧縮する。石が砕け、原子がねじまがっても、それでも圧縮する。どれほどの力がいるか分からない。しかれどもこの世に不可能はない。なせばなる、なさねばならぬ、何事も。ぐんぐん押し込んでケースに押し込めば、入るだろう。入るまで続ければ入るはず。次の瞬間にケースが弾け翔ぼうとも。

石が可能であれば、岩を、岩が可能であれば、山を、山が可能であれば、地球まるごと小さなケースに詰め込めるに違いない。詰め込んだそれはどんな状態であろう。もはや固体であるとか、液体であるとか、気体であるとか、そういう言葉で説明できる物なんだろうか。たゞエネルギーの奔流がそこにはある。

小さなケースに地球を詰め込んで、太陽も詰め込んで、銀河を、そして宇宙全体を、この宇宙にある全ての粒子を、エネルギーを、そして空間そのものも小さなケースに詰め込めば、それはどんな状態なのか。不可能ではない。この世がビッグバンより生じたとすれば、時を遡れば、小さなケース大の時代があったはずで、その小さな宇宙には、今ある全てが小さな空間に収まっていた。収まるというか、それだけしか空間が存在しないのだから、その空間の内に存在するしかない。

ならばその小さな空間の宇宙は、もはやエネルギーがエネルギーとして存在できるのか。とてつもない力であることは容易に想像できる。その存在力は、小さな空間では支えきれないほどの存在力であって、空間を押し広げる程の存在力であって、実際に空間はどんどん内部から広げられていく。

しからばこの宇宙は、時代とゝもに大きくなっているとすれば、どんどん希薄に、まばらに、うつろになっていっている。故に今は希釈された時代、広大な宇宙にぽつんと佇む原子たちの、最期のともしび。

最期の晩餐として、命が芽吹き、他愛ない思考で、生を苦しみ、死を喜び、弱いエネルギーの波動となって消えていく。

そうやって命は消えていく。思考も消えていく。波のように消えて、波紋だけが広がって、やがて揺らぎも見えなくなる。

こうやって宇宙に思考を巡らした所で、やっぱり死ぬことは怖い。死ねばどうなるのか。怖いと思う感情すら死んでしまう。怖い。死ぬことは怖い。

あゝ、そうか。死ぬことが怖いなんて、何と幸せなことであろう。それはひどく幸せなことで。


制作・著作/香倉外骨  2020/01/24初出
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