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serial experiments lain

内容

中村隆太郎監督、小中千昭脚本によるテレビアニメ(1998年放映、全13話)。 平成十年度、第二回文化庁メディア芸術祭のアニメーション部門で優秀賞を獲得。 低予算で作られていながら、随所にデジタル処理を施した独特の映像、 BGMを出来るだけ排して日常の騒音を取り込んだ音世界など、 その表現方法が新鮮なだけでなく、 インターネットと情報化という時事テーマを見事なまでの切り口で ファンタジックに物語る。 岩倉玲音(いわくられいん)という少女が友人の自殺をきっかけに、 肉体世界とは別の精神世界に興味を持つ。 インターネット(劇中ではワイヤード)上で様々な情報に集めながら、 「私」という存在の不確実さと理由の知れぬ不安に苦悩する。

感想

我々は今、情報化社会に生きている。 その社会では情報が最も関心の対象であり、 情報化されぬものは存在しないとさえ考える者もいる。 そう大げさに考えなくても普段の生活を見ると、 情報が暮らしの多くに繋がっていることを痛感する。 科学という名の情報、エイズという病気の情報、 朝の天気予報で傘を持ったり、テストの結果で成績が決まったり、 平均寿命から何年ぐらい生きれるかを予想したり、 まるで天与の真理が如くに情報で考えている。

例えば初めて会った人を判断する際にどういう情報が入手出来るだろうか。 目から映像として容姿が分かる。 それを時系列に並べれば行動様式が認識できる。 耳からは音声が飛び込んで来るし、 その内容から人柄まで必至に感知しようとするだろう。 履歴書なりを作らせれば出身校やら職歴やらが露呈する。 しかしどんなに正確に情報を収集しても、それは彼の属性を集めたに過ぎない。 彼の姿は、「彼」の姿であり、「彼」ではない。 彼の姿は彼が持っている属性の一つに過ぎない。

人は色々な属性から彼を認識し、それで彼の存在を決定する。 つまり彼の存在は彼の情報化された物によってのみ確定されるのだ。 私にとっての彼とはその程度の物でしかない。

そこでふと気付くだろう。 結局他人とか周りの景色だとか、そう世の全ては情報でしかないのだ。 こう考えると社会とは、自然とは、 生物だとか物質だとかの情報端末が、 相互に情報を交換しているネットワークに見えてくる。 いや待てよ、そうなると自身もネットワークに接続しているじゃないか。 そもそも自分自身だって情報でしか認識していないじゃないか。 鏡に映った自分を眺めても、胸に手を当てて鼓動を感じても、 ただ脳内ネットワークに刺激を与えているだけである。 私は私の属性を見ることは出来るが、「私」を見ることはできない。

もし全てが情報化されたとすると、 インターネットはまさに宇宙の縮図となる。 インターネットは全ての端末が善意の元で行動すると仮定し、 端末から端末へとリレーしながら情報を伝えていく。 情報の転送は各端末の為すべき事だが、必ずしも為されるとは限らない。 回線が混んでいればメールが届かないことも充分起こることである。 また或一定以上に回線が込み合えば、 錯綜としたデータの渦によって、 元々可能であった量の通信でさえも不可能になってしまう。

自動車は道路の右側を整然と走っている。 しかし個々の自動車が右側しか走れないように作られている訳ではない。 左側を走ろうと思えば可能であり、それを止める術はどこにもない。 ひとたび一台が左側を走れば、すぐさま道は混乱に巻き込まれる。 事故が発生し、渋滞が発生し、 身動きの取れなくなった哀れな自動車たちがクラクションを泣き叫び、 自動車同士に行われていた通信 ---整然とした動き、ブレーキランプなど--- がその意味を失い、 たちまちにパニックに陥ってしまう。 人の場合もまた然り、極度の密集状態では情報は吹き飛んでしまう。 なぜなら人は少なからずエラーを発す物であって、 密集状態では誤った情報が次々と伝達され システムの崩壊にまで至ってしまうのである。 エラー? 右側通行が正しくて左側通行は不正?  そんな情報はどこからやって伝わって来たのだろうか。

そう、これは一つの警告である。 我々は余りに情報を信頼しすぎている。 そして情報こそが正しいと考えている。 あなたはどうして人殺しがいけない事か答えられるだろうか。 法律で罰せられるから? いやいや法律以前にしてはならないことであるはずだ。 人殺しがいけないから、それでも人は過ちを犯すから、 わざわざ法律に明文化してあるのだ。

確かに普段は彼の属性だけが見えている。 けれども「彼」が存在して初めてその属性もあるのであって、 情報があるから彼が居るのではなく、 彼が居るから情報が伝わって来るのである。 デカルトは『我思う、故に我あり』と語ったそうだが、 我が思う故に我があるのではなくて、 我がある故に我は思う事が可能なのである。 玲音は友人(であろうとしてくれた物)の胸に手を当てることによって 自らの肉体を、更には自身そのものの存在を実感した。 しかし実感はあくまでそれだけの物であって確証にはならなかった。

確かに情報が全てではない。 だが情報以外に得られる物はない。 とすれは情報以外は無くとも同じではないだろうか。 この予測のみを通して判断することは危険である。 何故なら我々は情報以外は得られないのだ。 したがって情報以外が如何に大切であるかは知らないはずだ。 知らない物を勝手に要らないと決めつけて良いものか。

本作品「serial experiments lain」が語るのは非常に多様である。 けれどその内部に埋め込まれた深緑色の渦を目の当たりにした時、 視聴者は圧倒的な力に魅了され、 そして自分でも分からぬ程の静かな感動を味わうことになる。 そう、少なくとも私だけは信じている。 そこに玲音が存在していた事を。

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