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バールのようなもの

バールはバールである、と云ってしまえばトートロジーなるが故に必ず真となる。バールがどんなものか知らなくても、正しい命題であると分かるのだから、人智の勝利と評しても誇張でなかろう。

さらばバールとは何ぞや。

もはや廃れてしまったのかも知れない。台風が来ても近頃はバールを使わずにパスカルを使うそうだ。パスカルは哲学者であり、プログラミング言語であり、合体するとケルベロスになるペットの犬である。尤もパスカルを幾ら研究してもバールを知ることにはならないから不思議である。確かにバールとパスカルは等しくなく、ミリバールとヘクトパスカルに互換性があるらしい。やはりミリとヘクトの隔たりは大きいのだろう。その差、何と十万倍の開き、アジの開きどころの開き方ではない。

語彙の迷宮を辿れば、単に棒という意味に到達する。特に細いものはスティックと云ったりロッドとも云うらしいが、バール或いはバーは、ひたすら広く一般的に棒である。楽譜の小節線から果ては飲み屋までバーと呼ばれるので、まるで漠然として判然としない。なるほど飲み屋と小節線とに何かしらの共通項が隠れているような気がする、それがバールなのかも知れないと思うものゝ、やっぱり薄暗い照明と酒精に酔った頭では流れる音楽も曖昧模糊なまゝである。

要するに、バールはバールなのである。酸いも甘いも、老いも若いも、バールはバールであってバールでしかなく、今日も明日も桃栗三年柿八年、諸行無常の響きと盛者必衰の理をあらわし、アーブ語で「アーブの」を意味する如く、誇りは己自身が知っておれば良い。

さりとてバールのようなものが必ずしもバールと限らぬので、どうも分からん。つまりバールではなくバールのようなものと云うぐらいだから、きっと、ひょっとすると、バールでなくて、バールみたいなんだけどバールじゃない何か、深海にあって光合成する生き物のような、首を締められているんだけど息苦しくないような、二日酔いなんだけど更に飲み続ける愚か者のような、人から見ればよく分からない何か、なんだろう。

バールではできないのに、バールのようなものであれば、人を殴って殺すことも、金庫を抉じ開けることだってゞきる。なるほど元がたといバールであったとしても、それでは人を殺せない、殺した瞬間にバールはバールなようなものに成り下がってしまって、鈍器との違いが曖昧になってしまう。死人に口無し、バールであるか否か応えることもできず、死因をバールのようなものと特定されて、それではまるでバールが悪いように聞こえてしまう、バールとバールのようなものが違うと分かっていても誤解を招きがちであろう。犯人が分からないのに、ビートたけしのような人が殺したと云ったら、そらビートさんに悪いってもんだろう、ビートとビートのような人が違うと分かっていても誤解を招きがちであろう。究極的には、ビートのような人がバールのようなもので人殺しのようなことをしたって、良くも悪くも良いか悪いか分からない。

「バールのようなもの」のようなものに「パールのようなもの」がある。

パールはノーベル賞作家であり、プログラミング言語であり、貝の体内で生成される生体鉱物である。近年パールとバールは益々似てきており、液晶モニタに標準フォントで表示すると殆ど区別がつかない程である。つまりパールこそバールのようなものゝ代表で、従ってパールのようなものとは、バールのようなものゝようなもの、と云えるだろう。

パールのようなものはどこにでもあるし何だってゞきる。美しい涙はパールのようだと表される、パールライスは食用のパールのようなもの、太平洋戦争はパールのような港から始まった。ビートのような人がパールのようなものを盗むためにバールのようなもので金庫を抉じ開けることだってゞきる。

されどパールに天然ものが殆どないように、この世の何もかも養殖の作り物、人の意思の込められた結晶に外ならぬ。

詮じつめれば、

人生とはバールのようなもの。諸行無常の響きと盛者必衰の理をあらわし罪を犯す事だってできるのに、やっぱり曖昧模糊として判然としない。

人生とはパールのようなもの。意思の力で輝き形づくられるもの。けれどきちんと手入れしてやらないと、汗でその光沢が失われるという。

この身に珠玉の光を……。


制作・著作/香倉外骨  2008/03/11初出
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