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女性作家の描く美少女

女性漫画家の描く美少女というのは本当に魅力的で、 平面に描かれた以上の奥行きが備わった恋心を抱くのである。 何故であろうか。たぶん好きになって行く過程が示されているからでは無かろうか。

思えば男性作家の美少女は殆どが静的な対象物であって、 瞬発的な可愛さのみによって決定づけられている。 素直な見た目の可愛さであるとか、 口癖であるような話し方の特徴であるとか、 体育会系の定言命則で語られる。 飽くまでも彼に惹かれるのは 前提であり当然であり何の不思議も無い事とされる。 従って物語の主体は好きになる過程では無く、 その思いが成就するか、或いは直接的な性欲との葛藤であったり、 恋敵との戦いであったりする。 なるほど男性的であろう。

対してコミュニケイション性を重視する女性作家は、 恋心を抱くに至る道程そのものが主題であり、 そうでなくとも動機付けがしっかりとしている。 即ち動的な可愛さというのが引き出されており、 姿ではなく仕草、語尾の言い回しなどでは無くて気遣いの言葉のような、 時間軸上に展開される魅力が存在する。 故に美男子とはとても云えない男にも恋をするし、 初めは意識していなかった二人が次第に相思相愛に至ったとしても、 すんなりと読者に受け入れられるのである。 その為に本来ではあり得ないような状況も誕生しうる。 つまり少しずつ惹かれていった思慕の対象が、 実は妹であったとしても、彼の魅力が提示されているだけに、 単純に否定する事が出来ないのである。

宮崎駿監督作品「ルパン三世カリオストロの城」に於いて、 もはや泥棒の物語ではなくて、峰不二子では無いヒロインたるクラリス姫を、 ルパンが助け出すという筋書きとなっている。 どうしてルパンが姫を助けねばならぬのか、 最後まで謎の儘であって、観客は自己解決を試みる必要がある。 そこに恋愛感情というぼんやりとした意図を汲み取るに至る。 劇中では恋愛に至る過程どころか、そのような感情を有している事さえ 描かれていないが、前提を仮定せねば消化不良を起こしてしまう。 そう、クラリスこそ憧れのお姫様なのだ、と。

ゲスト・ヒロインという設定は受容力を広げる役目を果たし、 衝撃的な展開をも可能にした。成就する事が目的としてない恋愛であるから、 「ルパン三世ワルサーP38」では、 結局ルパンはエレンの死を目の当たりする。 相変わらず恋愛その物には触れられていないが、 救出すべきお姫様が最後には死んでしまう、これは驚くべき事である。 と同時に、それは峰不二子では演じられぬ役所でもある。 ファイナルファンタジー8に於けるエアリスの死と同等の印象深さだ。

桂正和「I"s」では、 主人公は葦月伊織にたゞひたすらに思いを伝えようと、 その一点のみで話は進められて行く。 何故好きなのかには触れられず、 見た目の可愛さのみが強調され、 昔から好きだった、それだけなのだ。 あだち充「H2」にしてもそうだ。 ひかりって実はいゝ女じゃんと唐突に気づいた、 それだけの理由である。もはや前提として慕う気持ちがあって、 既に恋人が居てる上に、その人は自分が紹介したという、 昼ドラ並のドロドロした世界こそ、本題なのである。

高橋しん「最終兵器彼女」に至っては、主人公はあっさりと切り捨てる。 あたしなんかのどこがよかったの。それは、カオだけ、だと。

女性作家は恋愛感情を仮言命法で描く。 例えば当初は意識していなかった人を徐々に好きになっていく様が描かれており、 故に障壁に面した時の葛藤や片思いの切なさに現実感が伴うのである。

高橋留美子「らんま½」において、 二人は許婚者という格好の条件を与えられているにも関わらず、 当初は互いをけなし合う程仲が悪い。 しかし随所に二人のエピソードが挟まれ、 互いの優しさや気遣いが描かれる事で、 相思相愛への流れが生まれるのだ。 天童あかねは一見がさつだけど本当は繊細で恥じらいがある、 という風に内面のあるキャラクターが居る。

CLAMP「ちょびっツ」では 対象は人型パソコンとなっていて、主人公は可愛いと認めつゝも 機械は恋愛対象じゃないと否定する。けれど思いやりとか、 儚いばかりに一途で無垢な感情に、主人公は惹かれつゝ悩む。 たゞの機械を愛する事に、動く人形に欲情する事に。 そこには当然としては語られぬ恋心が存在するのである。

いやそもそも男性作家にとって恋愛感情が定言命法であるのは、 それが語るまでも無い当然の事柄であるからかも知れない。 クラスの可愛い女の子に密かに抱く恋心も、 ずっと云えなかった心の叫びも、 欲望に翻弄される肉体への疑問も、 男ならば誰しも体験してきたゞろう。 今更描写するまでも無い感情なのだ。

ところが女性作家にとって、 美少女に惚れるというのは自明の感情ではもはや無い。 故にその感情の出所を明らかにする必要があって、 明確な理由付けが行われるのである。

女性にとって美少女がたゞそうであるだけで好かれるというのは、 理解できないというよりも寧ろ面白く無い状態であろう。 容姿で恋愛が決まるなど不愉快と云わずして何と云おう。 女性にとって美少女が幸せになるなんて許せない。 顔かたちより心の美しさこそ重視されるべきだと、 女性ならば思うだろう、と男性の私は思う。

もとより美少女は美女である前に少女である。 少女とは無垢で純真でおどおどし、白い肌はぷにぷにとして、 それでいてまったりとした好奇心を持ち合わせている。 時として制服をまとい、眼鏡を掛け、どじっ子であったり、 ひたむきな性格で一途な心を持ち合わせている。

筋肉的労働は容易に機械化できる事から、 神経的労働に従事する者の数は増加の一途を辿っている。 即ち物を相手にする仕事から人間を相手にする仕事へと、 換言すれば人類はもっぱらエネルギーの消費者へと変貌しつゝある。 もはやホワイト・カラーに限らずとも筋肉の使用度は低く、 人間を相手にしない仕事とは即ち機械を操作する事と同義となっている。

人を使うでも機械を使うでも無い、 全く新たな行為が、今の世には必要である。 即ち受け入れるという事。 狂おしいまでに受動的で、儚いまでに傍観者で、 足長おじさんの如く応援している。 この無償の愛をどろどろと吐露する対象物として、 美少女はそこに確かに存在しているのである。

存在とは何か。存在は如何にして実証されるか。 回答はしばしば物理的な事象を端緒として行われる。 時計とは水晶振動子により一定速度で針が周回する物、 そして時間を計る道具。それは確かに物理的事象である。 デジタル時計であっても、パソコンのディスプレイ上に表示されていても、 物理的変化でもって人に影響を及ぼす点に於いて、 確かに存在するように思われる。

しかしながら実証科学的な存在とは寧ろ滑稽でさえあって、 本来の意義としての存在を充分に説明しているとは到底思われない。 つまるところ存在とは、客体として捉えるべきでは無く、 主体としての人間、その人間的経験に対しどのような事態を及ぼし、 根源的な意義を持っているかで基礎づけられるべきである。 要するに美少女とは物理的な事物として語るべきでは無く、 私という主体に対してどのような係わりを持って、 かつ影響しているかゞ重要なのである。

私には疑いようもなく、美少女は存在する。

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