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初めての祈り

テレビの前で寝ころぶ私に、今年十八になったばかりの上の娘、智香がいつになく真剣な眼差しを向ける。たぶん良い話では無いのだと直感しつゝ、開いたドアの所で立ったまゝの娘を、平静を装いながら見た。智香はテレビの音に掻き消されそうな弱々しい声で、しかし確かな目で呟いた。妊娠した。結婚したい。

どうしようも無いぐらいに涙が溢れそうになった。それを必至でこらえて、本当は聞きたい事や云うべき事も多いというのに、そうかと答えるしか出来なかった。私はテレビの画面に目を泳がせた。

実は智香の父親は私では無い。私が愛した人の子供、それだけで充分だと思って、妻と結婚した時に同時に養子にした。父親も少しだけ知っている。妻の選んだ男だけあって、なかなかいゝ奴だと思う。たゞちょっとした感情のずれというか、彼の子育てに前向きになれぬが故に二人は離れた。

私は胸の中で誓った。智香は私の娘である。実の娘として育てる。そして妻と約束をした。まだ幼い智香には、これから何があったとしても本当の父親の話は絶対にしないと。

純粋に未来を信じたあの大安から十七年、私は立派に父親を演じてこれたゞろうか。智香は可愛かったし、三つ下の春香とも誰が見ても仲の良い姉妹であった。けれど小学校の運動会で、春香の姿ばかり探している自分自身にふと気づいて、悲しくて情けなくて、ある夜こっそり神社に行って神に祈った。決して許しを請おうなんて思わないから、どうか娘には気づかれないように守って下さい。けれど手を叩いた音だけが闇に響き、神様は黙ったまゝだった。

私は家族の為に働いた。調子の悪い時だって平然と仕事に打ち込み、娘が学校をサボり気味だと聞いても、妻に任せてずっと働いて、早く仕事が片づいた日にも同僚と飲みに行った。今更許しを請うてなんになるというのだ、顔を会わさなければ気づかれる事も無いと、ひたすら逃げた。どうしても消えぬ、春香の方が好きだという感情から。

確かに娘に悟られまいという約束は守れたかも知れないけれども、堅く打ち付けた誓いは破ってしまったのである。私は智香を育てゝいない。たゞ逃げて見ていたに過ぎない。今更父親面して何を云おうというのだろう。

いつの間にか背後に正座していた二人。智香の声に耳を傾けたのは何年ぶりだろうか、幼い化粧で覆われた唇から、お父さん、ありがとう、と呟く。しばらく時間が止まったように感じた。今全てを打ち明けようかとも思った。使う内に汚れた絨毯、壁の落書きの跡、当たり前の景色が再び目に入り出す。私の高鳴る鼓動よりも、もっともっと小さい線の細い声で妻が、ありがとうと、云った。

真っ白になった私は、気が付けば妻と娘に向かって、ありがとう、ありがとうと、何度も何度も繰り返していたのである。私は、神に初めて、感謝した。そして初めて、人の幸せを、祈った。


制作・著作/香倉外骨  2004/09/20初出
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