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自意識と行動後認識

自意識とは何か。

人はなぜ自己を認識しうるのか。自己を認識し、他人と区別して、欲求を満たそうとする。死の恐怖は単純な痛みに由来するにあらず、多くの場合、自意識が消えてしまうことに起因する。自意識、それが何に役に立つというのか。

高度な自律行動のために自意識が必要かというと、そうとも限らない。我々の殆どの行動は無意識下に実行される。呼吸、視覚、反応が高度に自動化されているからこそ、我々は自由に歩いて回れる。真っ直ぐ歩く時に、体重移動により均衡を保つことなど意識しない。目の前の石ころを避けるのに、足を何メートル上げてどうするかなど意識しない。飛んできたボールを受け取るのに、寧ろ何もかも意識していては受け止められない。

より内面的な計算処理にしてもそうだろう。筆算のように、表記方法によって計算が容易くなるのは、我々は計算すら感覚的に、即ち無意識下に実行しているのである。

或いは高度な社会構築のために自意識が必要かというと、そうとも限らない。しばしば例に挙げられるように、アリは単純な規律によって行動しながら、驚くべき社会を構築する。シロアリは、尤もシロアリはアリよりもゴキブリに近いらしいが、その圧倒的な緻密さと強固さで優に五メートルを超える構造物を組み上げる。

しからば自意識とは何か。

自意識とは一種のシミュレーターではあるまいか。脳が生み出す仮想空間で自身を動かす。そこで行動予測を図るためのシミュレーターではないか。

私は自意識の中であれこれ思う。次はこうしてみてはどうだろうか。あゝ云われたらこう云い返そう。そうやって行動をシミュレーションすることで、より良い行動を生み出そうとしている。

現に自意識は脳の上に構築された仮想体である故に、その実行速度はかなり遅い。実際に走るより、走る手順を逐一意識することの方が遥かに遅い。遅い脳をフル稼働してシミュレートする。それでも現実には追いつかない。

寧ろ自意識は反省の為にあると云える。実際に行動した結果を評価し、反省し、脳内にイメージとして再構築し、そのイメージを動かしてシミュレートする。そうしてその欠点を正し、より良い行動へと結びつける。より良い行動になるように反復練習する。無意識下で動けるまで練習する。換言すれば意識している内は正しく動けていないのである。

眉唾物の研究報告に、認識とは行動の後にやって来る、というのがある。熱いものを触ると手を引くというような生理作用は反射と呼ばれる。反射は無意識下に生ずる。そして生じた結果は認識できる。実は人間の行動はすべからく反射であって、その行動に至る思考であるとか認識であるとか意識であるとかは、皆あとからやってくるというのだ。即ち結果に対して自己解釈し、意識しているに過ぎず、それを自意識が選択した結果と思い込んでいるだけだというのだ。

確かに脳の処理速度では現実の問題を認識しているいとまはない。例えば被験者に色つきカードを見せて同じ色の旗を上げさせるとする。脳を計測したところ、脳の自意識と思しき部位が活性化する前に、もう旗を上げようと手が動き始めるのである。

行動後認識。これが自意識であるまいか。しからば自意識があらずとも高度な行動ができることも納得できよう。されど自意識によって反省し、非現実をシミュレートし、それを現実に引き込む力こそ、自意識の力である。

尤も非現実にループして抜け出せなくなると、或いは自意識の内に囚われてしまうのかも知れない。


制作・著作/香倉外骨  2010/02/01初出
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