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時間が尽きる時

諸行無常。 此の世、即ち人智の及ぶ世界に常なる物は無い。此の世だけでは無い。 凡そ人智の及ばぬ次元であっても無常である事に変わりは無かろう。 不変など存在しない。 造物主たる神も無常だり、彼もまた創造物である事に変わり無い。 恒常など存在しない。

時間も無常である。 宇宙が開闢したという事は時間が始まったと同義だろう。 その時間も終いには尽きる時がやってくるだろう。 時間が終わるのにその時間を計測するとはまた変な具合だが、 ともかく時間が有限である事に疑いの余地は無い。 けだし諸行無常なのである。

人は過去も未来も知り得ない。

そもそも時間なんて物はそれ単独の自立した概念では無いし、 それ故に一人一人にとって、一原子一原子にとって、 それぞれがそれぞれ別々に時間の流れを体験する。 つまり相対的に高速に動く物は相対的に時間が遅く進行する。 亜光速の宇宙船に乗って火星まで往復して帰ってきたら、 船内の時計と地球の時計ではずれが生ずるだろう。 であるならば究極的には外部から見る限りに於いて速度は常に一定なのだ。 幾ら高速移動で惑星間移動を果たしても、 確かに乗務員にとっては早かったかも知れないが、 地球から見ればとんでもない時間が掛かってしまった後なのだ。

要するにこうだ。同時に生まれた人が全く同じ長さ八十年きっかしで死んだとしよう。 この場合は二人は同時に死ぬかもしれないし、死なないかも知れない。 確かに本人にとってはいずれも同じ八十年であるけれども、 相対的には同一時間を動いているとは限らない。 例えば甲がずっと部屋に閉じこもってじっとしていて、 乙がずっとコンコルドに乗って飛び続けていたら、 甲は乙より早く死ぬ事になる。 確かにその差はほんの僅かであるけれども。

人は過去も未来も知り得ない。

即ち諸行無常であるが故に全ては相対的な因縁に依拠した存在に他ならぬ。 従って絶対神など存在しないからそれに従う要請は不用である。 また我が身も、人に関わる全てのしがらみも、自我も意識も全て存在しない。 ただそれは周囲との関わりに於いてのみ認識されうるのである。

だけど人は時間に固執する。 時間が無い無いとわめいては時間を無駄に浪費する。 そこに時間が有るというのに、さも無いように誇張しては、自分で自分の首を絞めている。 時間は在るのでは無い。時間は有るのである。 在という字は水流を土で堰き止めるという意味するが、 時間を堰き止める事など出来ないし、 だからこそ時間と呼ぶべきなのである。 反対に有るは月の満ち欠けのように、 変化する様を表す文字なのである。 変化するからこそ我々はそこに月を感ずるのであって、 つまり有るという事は変化するという事なのである。 時間は有る。時間は変化する。 その変化はまた時間である。

兎も角、人は過去も未来も、そして自分の運命さえも知り得ない。 ただ自分がここに有る事は、自らの動きの中に証明できるであろう。 そういう他との関わり合いにこそ、人は、万物は有るのである。

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