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馬鹿は風邪を引く

風邪がトレンディーらしい。私はこう見えても流行には割と敏感なのである。と言ってもファッショナブルでは無いので風邪は引いていない。そもそも馬鹿は風邪を引くと言われる。私は阿呆かも知れないが馬鹿では無いので風邪を引いていない。しかしこの文は論理的では無い。馬鹿ならば風邪を引くとしても、馬鹿で無いならば風邪を引かないとは限らないからだ。兎も角、私は流行をヘイコラ追いかけるようなチャラチャラした軟弱男では無いので、たとい最新ファッションだとしても風邪など引いておらぬ。

馬鹿は風邪を引くのである。馬鹿は風邪を引かないなんて逆説的な意見である。

人は見かけに依らないなんて言うが、わざわざそんな風に言うぐらいだから人は見かけに依るのだろう。実際に記号学においては人が見かけに依るという結論に至るという。誤解せぬように。私は人の性質が外面に表出するなんて言ってる訳じゃ無い。人は見かけに依って認知されると言っているのだ。つまるところこうだ。私が女子高生の格好をしていたら、皆は私を女子高生と呼ぶだろう。そして万引きでもして見つかったら、女子高生が万引きしたと噂が広まるだろう。私が万引きしたのでは無い。女子高生が万引きしたのである。けだし女子高生は自分が女子高生という事を知っている。それ故に女子高生として行動するのである。

ところが私が単に女装だけしてみたらどうだろう。私自身では女子高生のつもりなのに、見かけがちょっと女子高生から外れて居たら、こうは行かないのである。そう、私は男である。いやしくも人間の雄である。幾らセーラー服を身にまとったとしても、凡そ女子高生には見えないだろう。さすれば皆は私を女子高生とは呼ばずに変態と称すのである。そして万引きでもしようものなら、狂乱した変態が万引きして敢えなく御用、となる次第である。つまり人は見かけに依るのである。

制服というのが在る。学校の制服、我が愛しのセーラー服からブルマー姿まで、或いは野球のユニフォームだってそうだ。ビチビチの競泳水着だって或意味では制服だ。制服というのは見かけの定義である。人は見かけに依るのだから、見かけを決めてしまえば良いという事になる。頭を丸めりゃ彼も立派な僧侶に為るのである。制服なんて物は記号の押しつけに過ぎないし、また我々は記号を着ずには生きられない。

発情した人間の雄は記号的な物に性的興奮を覚えるという。我が国の中学校には至る所に一つの記号が見られるという。地方地方で形や呼び名は若干違うだろうが、私の中学ではそれをオメコマークと呼んだ。記憶が定かでは無いが、確か地図記号の発電所に似ていた。それは女性器を記号で表した物であるが、こんな無機質な図形を描いて喜んでいるなんて、凡そ盛りのついた人間の雄ぐらいであろう。中学生ぐらいはそんな記号が大好きだ。そこら辺に落書きされたSEXの文字。我々にとってそれはセックスでも性愛でも交尾でも無い。ただそれは、SEXという三文字は、いやこれは三文字では無い。SEXはこれで一つの記号なのである。性的興奮を表す記号なのである。

記号に興奮する事を「萌える」という述語で表される。例えばセーラー服という記号に萌える。ルーズソックスという記号に萌える。ブルマーという記号に萌える。スクール水着という記号に萌える。そして女子高生という記号に萌える。或いは猫耳という記号に萌える。肉球という記号に萌える。鞭という記号に萌える。メイドという記号に萌える。巫女さんという記号に萌える。妹という記号に萌える。そして処女という記号に萌える。声優の声に萌えたり、アニメの画像に萌えたり、保健室というシチュエーションに萌えたり。

名前を付けるという事は記号化するという事に他ならない。オジサンがお金を渡したら女子高生があんな事からこんな事までしてくれるという。これに援助交際なんて名前を付けたとたん、記号は独り歩きを始めてしまう。援助交際という無機質な記号が本質を隠蔽し、見かけだけの行為を指すようになってしまう。しかし人はそれに気付かず、いや気付いても気付かないふりをしたまま、見かけだけで判断するのである。

要するに女子高生とか言って女子高校生を祭り上げるのも、雄どものリビドーを発露としている。即ち女子高生は女子高生と呼ばれる事で、女子高生として振る舞う事を余儀なくされる。マスコミは女子高生と記号化する事で彼らをイメージ通りの行動に縛り付ける。女子高生は淫乱だ。女子高生はルーズソックスだ。女子高生は援助交際だ。そうやって彼らに女子高生らしく振る舞う事を強要するのである。

一旦記号化されると、人は記号のままに行動してしまう。何故ならその方が楽だからだ。女子高生が援助交際しても社会は認めてくれる。援助交際した女子高生は個人が攻められる事なく、援助交際を催すような世相が悪いのだという議論にすり替えられる。援助交際した羨ましいオヂサンも、それがバレたとしても運が悪かったで済まされて、出会い系サイトの功罪などという風に、社会批判に問題をすり替えて話は終わってしまう。

社会が悪い、社会を良くしよう、などと言っただけで社会を良くできるはずが無い。社会というのは人間の記号その物の象徴である。社会は人間のメタ記号である。社会はどうたらと言った時点で、物事の本質から目をそらして、ただ表面的な見かけだけで判断しているに過ぎない事になってしまうのである。

馬鹿は風邪を引くのである。社会には様々な伝染病が流行している。人間は皆等しく愚かで馬鹿だから、伝染病に掛かってはギャーギャー叫んで喜んでいるのである。


制作・著作/香倉外骨  2003/02/04初出
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