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結婚する気はございません

辞海によると結婚とは「夫婦の縁を結ぶ事」だそうだ。 なるほど恋人同士であっても結婚したと称さないのは、 男女の間に一子をもうけるために夫婦の契りなど要さないからだろう。 婚姻なる行為によって夫婦となる、その事実そのものが有意なのだ。 辞海によると夫婦とは「結婚した男女一組」だそうだ。 ……なんだ、堂々巡りじゃねえか。 これだから国語辞典は役に立たない。

児玉聡によれば結婚とは、 「謎の多い社会制度の一つ。法的、社会的に男女が交際を宣言すること。 この宣言には、しばしば宴会と旅行が伴われる。 また、宣言を取り消すことは離婚と呼ばれる。 日本を含め多くの先進国では一夫一婦制が普通だが、 世界の7割の社会において一夫多妻制が行なわれているそうだ。1990年代以降、 先進国では同性愛間の結婚の是非が議論されている」という。 尤もショウペンハウーに云わせれば 「結婚とは、権利が半分になり義務が二倍になることだ」そうだが。

要するに結婚は個人的な都合から生じるのでは無いのだろう。 社会システムの要請から設けられた制度に他ならない。 だから結婚した夫婦に対して、特別の配慮が与えられたり、 押しつけられたりするのである。

いきなり突拍子もない話題を取り上げてしまったけれど、 自身の将来像を想像した時に、どうしても解せないのが、結婚。 私自身の計画の中には結婚の二文字は無いにも関わらず、 世間はその二文字を当然の事のように意識させてくる。 結婚する気が無いとなると、どうしてなのかと問われる。 特段の理由が無い限りは結婚する物だという考えが充満しているのである。 少なくとも私は、結婚する暇ができたら結婚するかも知れない、ぐらい興味が無い。

こゝまでの記述は本当にくだらない。畢竟定義なぞどうでも良い。 台風が今晩にも来ようという時に台風が何かを考えるのは莫迦げている。 大切なのはその状況に如何にして応じるかであって、 定義などは通り過ぎてから悩んでも遅くない。 結婚に限らず、就職であっても、或いは進学であっても、 いわば一種の定言命法に他ならない。 莫迦息子が「誰も生んでくれって頼んで無い」と親不孝な台詞を吐けば、 私は全くもってその通りだと同意する。 私は確かに生んでくれと頼んだ覚えは無い。 しかし幸か不幸か生まれてしまったのだから生きるしか無いのであって、 生とは何かを知らぬまゝ生きて行くのである。

多細胞生物というのはつくづく面白い物体だ。 例えば私という生物は何十兆からの細胞から構成されている。 細胞、それは単細胞生物として一通りの機能を有していて、 活動しつゝ細胞分裂して繁殖して行く。 私の細胞たちはほゞ同一のDNAを有していて、 そういう意味で皆親戚同士なのだが、その割に一人一人見かけも役目も違って、 出自が同じはずなのに、知ってか知らずか厳格な身分制度を敷かれている。 個々の細胞の寿命は短く、次々と死んでは新たな細胞が生まれていく。 それは巧妙でも何でも無い。 一つ一つは好き勝手に動いているに過ぎないのだけれど、 自然と全体として有意な振る舞いとなって表出し、 またそうなるように各個に運命づけられているのである。

細胞の集合が動いている。 何十億の人間の集団はどこに向かって動いているのだろうか。 行き先なんて個々の細胞が知る訳が無い。 そんなもんだ。

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