去る二月十九日に私は素晴らしい言葉に出会った。 「金や銀などの稀少なものは人間が生きる事にとって価値が無い」とは、 げに、これほど人生の深淵を描き出した言葉があったゞろうか。
そもそも我々人類の肉体は水や炭素など、 一つ一つ分けて買うとそれはそれは安価な物質から成っている。 安物とはつまり大量に存在する物であって、 動物がそれから成るのも自然の道理であろう。 また水やら炭素を日常で良く見かけるのも、 その応用性や機能性が優れているからであって、 例えば水は溶媒として、保温体として、運搬用として、広く有用である。 汎用性が有って大量に在るからこそ、 肉体の組成の一員を担う権利が与えられているのである。
であるからして所詮金なんぞ、如何程の価値を持っていようか。 稀少で変化しにくいそれは、人体にとって何らの有用性も見いだせない。 金箔を口から飲み込もうと養分に為る事無く排泄されるだろう。 金が幾ら在っても嬉しくとも何とも無い。
云ってみれば紙幣にしても同じ事だ。 あんな紙切れ、本当に買えば数円の価値も無かろうに。 まあ少なくとも金よりは増しかも知れないな。 集めて燃せば多少の灯りや暖を取れるだろうし、 けつに付いた糞ぐらい拭けるだろうし。 しかし誰がどんな風に使ったか分からない、 ばっちくて正体不明な紙切れが、人間の生活に必要な物なのだろうか。
当然ながら我々は紙切れたる紙幣を重用している。 要するに紙幣は紙切れだからこそ用い易いと云うべきなのだろう。 紙幣は紙幣としか使い道が無いからこそ紙幣たり得るのである。 銭がいやしくもパンであったらならば、誰かが途中で食ってしまわないとも限らぬ。 コンビニで支払う時に千円パンを渡そうとしたら、 腹を空かした店員がさっと食らってしまうかも知れない。 そうすると千円パンは既に腹の中、 私は呆然と証拠の無い暴挙にたゞたゞ呆然とするのみなり。
それにしても銭というのは量に変化が無いのを旨としている。 私が物を買う場合は、物と代わりに銭を渡す事になるが、 この取引に於いて銭は増えも減りもしない。単に移動したゞけである。 こう考えると世の銭の総量は常に不変であり、 誰かゞ銭持ちに成れば誰かゞ銭無しに為っているという事に他ならぬ。 うぬらは人から奪い取ってまで銭が欲しいか。
けれど考えてみれば銭を払わずに物を買う時がまゝ有る。 図書券で本を買う時、付けで飲む時、クレジット・カードで払う時、 それらは結局銭を払う事と等しいかも知れないが、 今その時点で払わない事に意義がある。 例えば図書券にしてみれば、量の変わらないはずの紙幣を、 勝手に水増しゝていると見なせよう。 銭という虚を、図書券という無の存在で膨らませて、人に虚無の富を見せ掛ける。 嗚呼、空虚な再生産。
無が更なる空しさを生む。 偽造された紙幣、ゼロが書き足された通帳、 即ちそれがたゞのまやかしだから、偽造も詐称も可能なのであろう。 一体全体人類は何を生産して来たのだろうか。
ところで頭の固い先生方は、 アラビア数字は左から右へと書く物と信じて疑わないらしいが、 それは間違いどころが恐ろしく非効率で不効率な書法なのである。 例えば桁の大きな数を読み下す時、 一旦下の位から一十百千万、十万百万千万と桁を数えてから、 ようやく数を読み始めたりするけれども、これなどは無駄の極みであって、 右から走査して再び左から読み直すぐらいなら、 いっそ右から読んでしまえば良いのである。 現にアラビア語は右から左へと書かれる言語なのであって、 そこで使われていたアラビア数字を そのまゝ反対方向のヨーロッパ語に移植したもんだから、 こんな頭の混乱する事態を呈してしまったのである。 これがどれ程の愚行かお分かりだろうか。 複数の数字は右揃えにすると見易いのはご存じだろう。 例えば筆算は右揃えにして視覚的な整合を得ている。 ところが数字を左から書こうとしたばかりに、 右揃えが凡そ技術的な困難さを持って小学生を翻弄する。 即ち数は右から、下の位から書き始めれば、簡単に右揃え出来るでは無いか。
一つの見地に固執すれば、他がまるで誤った物であるかのような誤認を生ずる。 人間の目の動きから云って、横書きよりも縦書きが読み良いのは明らかだ。 本という形態、巻物という形態にする場合、年表は縦書きにするのが素直に収まる。 さすれば時系列は右から左へ流れるのが道理であろう。 勿論縦書きの際に左から右へと行を移しても構わないのだが。 つまるところ視覚へ素直に訴える物は認知も早いのだ。 デジタル時計よりもアナログ時計の方が認知が早く、また誤認も少ない。 これは車の速度計にも然りであろう。
こんな当たり前の事を、現代人は忘れかけているのかも知れない。
金よさらば、銭よさらば。金を捨てよ、銭を捨てよ。 全ての無価値な誤解を稀釈して、あらゆる無駄な固執を融解して、 初めて氷解する社会のからくり。
武器よさらば、武器を捨てよ。悲しみよさらば、憎しみを捨てよ。 やらなかきゃやられるなどと云うぐらいならば、いっそやられてしまえば良い。 私が犠牲に為るだけで、君が生き続けるならば、 進んで私は君に殺されようでは無いか。 君はそこまでしても私をあやめたいのか。 君はそこまでして何を手に入れたいのだ。 我執を捨てゝ初めて生への固執を許されるという。
屍と為っても、骸骨と成っても、こゝに外骨は居た。 そう、外骨は居た。うぬがその証人なり。