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克己心

そう、もう四年も前の話なのだ、私が彼と知り合ったのは。

それは入学式の日の事、誰もが初対面、もちろんお互い友達なんて居ない訳だから、 たまたま近くに座った者同士で会話を始めたりする。私もごく近くに居た彼に、仮にSとでもしておこう、Sに声を掛けたのだ。

Sはとてもいい奴というか、無難な感じの、まあ平均的な大学生とでも云おうか、或意味で大学生らしいといっても良い感じの人物である。大学に入って、ちょっと楽しく過ごしてみたいと期待を秘めたような、性格の面でも考え方の面でも、典型的な現代の大学生といった印象を受けた。いや、寧ろ大学生らしくふるまおうと、自分自身を作っているようにも思えるのだが、そういう所も含めて、非常に日本人らしいとでも云おうか、マージナルな時期だから許される特権であり、またそれが実は正解だったりするのかも知れない。浪人していたせいもあるのだろう、彼は人一倍大学生活を大学生らしく、目標とかそんなものは無いけれど、人並みで楽しい大学生ライフを送りたいと思っているようだ。

私はといえば、何かをしたいから大学へ入ったのでは無く、何をもしたくないから大学に来たのである。この大学に行きたいから受験したのでは無く、確実に通れる大学をと選んだのがここだったという、それだけ男である。四年間を楽しく過ごそうなんて毛頭思っていない。いや、確かに楽しく過ごそうと思っている部分も片隅にあるだろうが、それは大学生活としてでは無く、もっともっと個人的な部分での事なのだ。

格好つけずに云ってしまえば、私は生来怠惰で、何となく生きて来て、必要な事だけを適当にこなしながら、目標なんて持つべくも無く生きて来たのである。やれと云われた事は全くやらないが、同じ事でも自分から興味を持てば夢中でやる、そんなあまのじゃくな所が私にはあった。しかし基本的な枠組みとして、差し迫った必要の無い限り行動に移す事が無い、という怠け者が、思考の全てを支配している。従ってバイトなんて自分からやろうとは決して思わない。これには人見知りしがちという別の理由も無きにしもあらずだが、ともかく授業料以外の諸費用、定期代とか昼食代、教科書代なんかは自分で何とかしろと親に云われたのだから、仕方なく、全く仕方なくという言葉が当てはまる、小遣いなんてどうでも良かった、とりあえずバイトしろと云われたから、せずにはおられない状況にされたから、バイトをする、万事そういう惰性のみを推進力として、この肉体は動いているのであった。

それに比べてSはと云うと、自分の意思の力で進んでいて、確かの彼のそれは、軟弱で弱々しくて女々しいものだったが、それでも自分の意思で動いているように思う。その辺が私は嫌いだった。いや、彼を嫌う気持ちは、もっと他の所に端を発しているのかも知れない。彼は浪人して下宿して、そういう意味で恵まれたいた訳で、根本的な感情として、金銭的に余裕のある彼を見ていて、理不尽な嫉妬の念を感じてしまうのである。彼を疎ましく思う気持ちが、ひがみという醜悪な精神作用に基づくと気づいていながら、しかし自分ではどうする事もできずに、ただ嫌う気持ちで彼を観察すればするほど、欠点のあら探しとなって、益々嫌いになって行く。これは一種の自己防衛という面がある事を否定できない。即ち彼が嫌いなのは彼の欠陥のためなのだ、そう正当化し自分自身を納得させる事で、ひがみという本当の所、醜い自分を隠したかったのだろう。人の欠点なんて探すのは簡単な事、けだし欠点の無い人間なんて居ないのだから。

彼を嫌う気持ちに元来のひねくれ根性が手伝って、ことごとくSの発言に反対し、行動に反対し、できるだけ違うようになろうと努めてきた。選択する授業がかぶらないように避けたりしたし、なるべく直接に話をしないようにもした。けれど運命とは皮肉なもので、近づけば離れ、避ければ近づく恋路のように、どうしてもSとペアになる授業が存外に多くなってしまうのだ。

尤もこれは断る必要も無かろうと思われるが、一応念のための付け加えておくと、私とSの二人が誠の恋路を走っている訳では毛頭無くて、あくまでこれは物の喩えという奴であるし、そもそも私はこのようはラブ・ロマンス的な事を、アレルギーの如く拒否反応を起こしてしまうたちなのだ。まあ最近でこそ、少々そういう事も認められなくも無くなったものの、それでも恋愛そのものに対して恐怖にも似た嫌悪感を抱く事を禁じ得ないのである。が、まあこの話は関係の無い所。

ともかく私はSを否定した。彼が授業を真剣なら私は適当にこなすし、反対に彼が居ない授業なら死ぬほど真剣に励んだ。全く私が真剣に取り組むというのが、これほど不純な動機に依る所だなんて、自分で書いていながらも反吐が出る。

しかしながら、と私は思う。確かに彼の事が嫌いだった。ひがんでいるのも確かだ。だけどそれだけで、これほどにも私がひねくれなければならなかったのだろうか。自己嫌悪に陥るほどの嫌悪感は、実はいやしくも別の所にあるのでは無かろうか。

そうなのだ。私の彼に対するもやもやとした気持ち、いらだち、憎悪、恐怖にも似た嫌悪感は、嫉妬とかそういう次元に依る所の物なんかじゃ決して無かった。私は彼を嫌う理由は、つまるところ、こうだ。彼が、彼の考え方、性格、言動、全てが私のそれに、根本的な面に於いて『似ていた』のだ。似ていたなんてもんじゃ無い。そっくりだったのだ。軟弱で弱々しくて女々しくて……。それはまるで私自身の形容じゃ無いか。私はSを嫌っていたんじゃない。己の性格を自身で嫌っていたのである。彼を否定していたのでは無い、自分自身を否定していたのである。

大学を卒業すれば私達は当然のように離ればなれになる。避けようと避けまいと会う事は非常に稀になるだろう。今思うと彼が本当に存在していたのかどうかさえ疑わしく思われる。本当に彼は存在していたのだろうか。ただそれは、私の心が作り出した、仮想敵国だったのでは無かろうか。

いずれにせよ私はSから卒業しなければならない。畢竟するところ、私は彼の後ろを走っていただけに過ぎないのだから。これから自分で走って行かなければならないのだから。


制作・著作/香倉外骨  2003/03/27初出
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