雰囲気という文字に読み仮名を振ればフンイキである。 私はこれはフインキと発音しているにも関わらず、 国語の試験では後者が間違いとされてしまうのである。 けだし音の入れ替えというのは口語ではよくある事で、 例えば新しいという言葉はアタラシイと読むが、 上代にはアラタシと云っていたのである。 現在でも新たにはアラタニと読むし、 動詞ではアラタメルと云っている。 洗う(アラウ)もおそらく同語源と思われる。 発音は流動的な物であるから、 実際にフインキと云っている限り、 そう書いても間違いでは無いのである。
そもそも言語というのは発音する物と書き記す物とが別個に存在する。 音声は時とゝもに消えてしまうけれど文字はしばらく残っているのであって、 原理的に音声の方が移ろい易く文字の方が固定化され易い。 従って表記と発音の不一致というのは存外容易に発生し、 究極的に云えば江戸時代の「カ」が現在のカと同じ発音だとは限らない。 昔はヲとオを別の発音にしていたのだが現在は失われてしまっているように、 表音文字と云えども表記と音声に揺らぎが有る。
記録や事務処理の観点から見れば、 音声よりも文字の方が優れているのは明らかである。 我が国では国民の把握の為に戸籍を作成しているが、 その記録は文字情報に頼っている。 戸籍に於ける文字は飽くまでも識別子であって発音云々には影響されておらず、 たとい平仮名の名前であっても読みは分からない。 戸籍の名前が「たろう」であってもフリガナはハナコかも知れない。 つまり戸籍を見ても表記が分かるのみで発音は知る由も無いのである。
公的な記録としては住民基本台帳法による住民票もあるが、 こちらも法律としてはフリガナが求められている訳では無い。 たゞ多くの市町村では便宜的にフリガナで管理している為、 住民票の写しを交付請求する際にはフリガナを書く場合が多い。 にも関わらず住民票には記載されていないはずである。 言うなれば読み方は本人からの申し出に頼るしか無く、 裏を返せばフリガナは簡単に変更できるという事になる。 今日は香倉外骨をカグラガイコツと云ったとしても、 明日からはワダアキコと読んでも構わないのである。 免許証の類もフリガナが付されていないから問題無いが、 唯一旅券のみがローマ字表記を含んでいる。 このように発音よりも記述を優先するという逆転現象は興味深い。
言語というのは、言語と「表記」する事からも分かるように、 音声による物を源流としている。地球上には無数の言語が存在するが、 文字の無い事はしばしばあるにも関わらずどの自然言語も例外無く発音を持っている。 文字であったりボディーランゲージ・手話による言語が 発達しても良かったはずだが、そのような言語は発生しなかった。 言語がもともと掛け声や悲鳴などから発達したと考えれば説明が付くかも知れない。 或いは認知心理学から云えば、視覚と聴覚では 神経系の処理の違いから初動認識可能な時間に差異がある。 アイコニック・メモリ(視覚)とエコイック・メモリ(聴覚)では、 後者の方が認知時間が長い、つまり前後の関連性を長く知覚可能であり、 時間軸上に展開される物は聴覚に訴えかける方が認識し易いと云える。 これは音楽と絵画の関係に当たるだろう。 そういう意味でも映画というのは新しい表現手段である。 なお聴覚の方が認識能力が優れているというのは、 口語が流動的であるという事実に直結する。 多少の発音のずれがあっても同一と感ぜられるが故に、 発音は時とゝもに変化可能なのである。
さて世の中には無数の言語が現存するが、 どの言語も複雑な体系とおびたゞしい語数を持っている。 簡便で数十の語数の単純な言語が存在してもおかしく無いものゝ、 未だに発見されていない。 一般的な言語より寧ろ閉鎖的な言葉の方が複雑でありがちで、 話者の少なく他言語との交流が少ない「未開の」言語程、 より複雑であるという傾向がある。 ディクソン『言語の興亡』によると、 言語というのは発生と同時に一気に複雑になり、 二三世代(凡そ百年)の内には現存する言語と同程度まで複雑化するという。 確かにそうかも知れない。 ひとたび名付けるという行為を覚えた人間が、 世のあらゆる物に名を付さない訳が無い。 ひとたび話すという手段を覚えた人間が、 より豊かな表現を求めて話法を拡張しない訳が無い。 この爆発力こそ言葉の魅力に他ならない。