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無意識の淵

気が付くと車を運転していた。車で出かけているので当たり前だ。

ずっと考え事をしていた。運転は無意識であったと云って良い。記憶が無い。果たしてどんな運転をしていたのか。たぶん普通に運転していたと思われる。そこそこ交通量があるので、全くでたらめであったら間違いなく事故を起こしていたはず。おそらく安全運転であったと思うが自信がない。というのも覚えていないのだから。唐突に云う方ない不安が余の内に湧き上がる。

自我とは何か。意識とは何か。記憶とは何か。覚えていなければ生きてきたとは云えぬ。記憶がなければ次の行動など取れぬ。

例えば次の日、赤信号に関わらず進んでいたと指摘されたとしよう。普段ならばそんなことはないと完全に否定する。信号無視などしていないと断固と主張できる。なぜか。記憶がある為だ。しかし記憶とは曖昧である。昨日通った信号の色を全て覚えている訳ではない。どこが青で、どこが赤で停車したか、普通は覚えていない。たゞきっちり運転したということだけは漠然と覚えている。意識的に運転していた自信でもって正当な運転を主張できる。

ところがどうだ、気が付くと車を運転していた、無意識に近い状態であった。そんな後で赤信号で突っ走って行ったと云われると、ひょっとするとそうかも知れないと思ってしまう。おそらく守っていたとは思うがその記憶が無い。証拠写真など魅せられゝば違反しましたと白状せざるをえない、たとい偽造であったとしてもだ。

自我とは何か。意識とは何か。記憶とは何か。

気が付くと人として生きていた。息をしているのが当たり前になっていた。ずっと考え事をしている。いつから考え始めたのか記憶が無い。どこからが余の人生と云える。どこまでが余の人生と云える。或いは覚えていない部分は他人の人生なのだろうか。即ち覚えていなければ生きてきたとは云えぬ。記憶がなければ次の行動など取れぬ。

このまゝ無意識の淵に落ちてしまえば、いっそ楽なのか。


制作・著作/香倉外骨  2012/06/04初出
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