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作家すべからく貧しかるべし

名高きも、孤絶の物書きも、昔から貧乏なもんだと決まっておった。そりゃ中には金持ちもおったがな、ほれ、そん金は文章より生まれたもんじゃのうて、元から持っておったもんじゃろ、ほかに当てがあったりの。

いつからじゃろ、本で飯食うなんぞ始まったんは。すりの技が進んで、街に書物が溢れて、活字が金儲けの道具になっちまったよ。ほいでも、金を手にしたんは一握りの者じゃった。そりゃ悪いことゝは思わんがの、まことの豊かさを手にしたもんはおったんじゃろうかの。

けだし物を書くに必要な経費は高が知れている。紙とペンさえあれば用が足る。絵に描いたように飢える者ならば、試供品なり落し物なりを調達すれば、本当に金が掛からない。それぐらい、何かを書くとは簡単なこと。

されど書くはつまらぬこと、余裕が有ればやろうとは思わぬであろう。楽しいことならば幾らでもある、余ならば金を掛けて素敵な音を奏でよう。

即ち心の豊かなる者に書く物など無く、富の豊かなる者に物を書く用など無く、つまるところ身も心も貧しい下人だけが、本当に美しい文と舞うことが許されているのである。

いな。貧しいだけでは足りぬ。身も心も乏しい方端かたわだけが、在りのまゝ楽しく踊ることが許されているのである。足りなければ足りぬ。身も心も足りぬ者だけに……。それぐらい、何か、を書くとは困難なこと。

一昔、五体不満足なる本が飛ぶように売れ話題を掻っ攫った、金も掻っ攫った。世間から何もかも掻っ攫った当の著者、こいつは仮にも不満足ものであって、腕も足もない姿で頭だけこっち向いている、この表紙だけでも充分に不気味であろう、不気味でないなど云う奴がおったらそれこそ不気味である。まあ五体というには頭が含まれるので、自称五体不満足氏は五体不満足の域まで達していないようである、四体不満足と称すべきか。ひょっとすると腕も足もないから心まで無いのかも知れん、尤も心とは見ることができぬ故、その有無に拘泥するは詮無かるべし。寧ろ心が無いとは屈託の無いということ、無垢であることは不完全よりもいっそ完全に近いと思う。

とまれこうまれ、瑣末なことはどうでも宜しい。だけども問題は、今日の雨、足がない。腕がない。そして誹謗がない。確かにこれ程に売れたのだから、それなりに良いことを読み良く書いているのであろう。しかるを売れに売れ広まったこそ、否定の批判も多くあるべし、妬みの嫌みも撒かれるべし。どっこい余ならばすこぶるおかしいと考える所、即ちスコブル売れたのならスコブル評価も高かろう、ならばスコブル非難も浴びて然るべきに外ならん、スコブル攻められ、スコブル蹴落とされ、スコブル焚書されねば嘘だ、嘘を云え、嘘は云うな。

ひょっとすると、駁撃ばくできしなかったのでない、できなかったのであるまいか。

し五体不満足の書き手が心身壮健で五体満足だったら、果たして同じ態度で受け入れられたとは到底おもえない。先ず売れない、話題にのぼらない、たまたま記者の目に触れて書評欄で紹介されるのが関の山、しかも稀書珍書として載るだろう。運が良ければむごたらしい仕打ちを期待しても良い。差別的だと、身障者を馬鹿にしていると、不快ですらあると、燃やして焼き芋さえ拵えさせらず、回収され発禁の憂き目に遭うやも知れぬ。それぐらいすれすれの所の際物きわものなのだ、殊にあの表紙こそ。

ひょっとすると、心身が不自由な程、自由に動けるのではあるまいか。

この口がおしならば自由に言葉を紡げたのかも知れない、この耳がつんぼならば自由に言葉を聞けたのかも知れない。なのにどうして、余に手がある所為でペンを持てないでいる、余に才がある所為で書き進めれないでいる。

本来無一物、この文字は誰が書いたものであろうと関係無い、たゞ何が書かれているかゞ肝要であるはずなのに。信じていたのである。たとい読み人がおらずとも、読む者がおらずとも、文章が輝き続けると。頼みにしているのである。刻印のれようと、墨の光に痩せようと、ビット列の磁気に冒されようと、この文章が恒久のミームとなって、語られずとも語り継がれると。願っているのである。作家は貧しくも卑しくもなく、この文章に存在すらせぬと。

差別、今世こんぜで最も差別された言葉、「差別」。

翼をがれた鳥こそ、 自由に空を羽ばたける。 もう、光に届かぬとしても、天の美しさを知ればよし。


制作・著作/香倉外骨  2008/02/18初出
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