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さよなら

僕たちが、歩いて来た道の上には、何の障害物も無く、 ただ後ろにゴミを溜めて来ただけで、 僕たちが、歩んで来た道の下には、誰にも見えない夢が、 ただ下にあったというだけで踏みつけられ、 そんな僕たちが、ただ生きて行くというためだけのために、 これからどれほどの涙を生産し、 どれだけの魂を精算して生きていかなければならないのだろうか。

「七月の雨なら、一人歩きだせるかも」と彼の切ない叫びに、 答える声が無く、寧ろ反語にも似た悲壮感をもって、 この雨の夜の眠たさに、眠気以上の涙が、まなこを濡らす。 僕の空知らぬ雨が、節水に乾く水道を潤す事に、少しでも役に立つのだろうか。

だけど僕が泣き続ける。 そして僕が泣き続ける。 訳を聞かれても答えない。 訳を聞かれても分からない。 何も備わっていないこの顔に、 目があるとすれば、ただ涙を流すため、 鼻があるとすれば、ただ涙を流すため、 口があるとすれば、ただ涙を流すため。

子供が大人に不平をぶつけるように、 僕が社会に無茶を感ずれば感ずるほど、 僕の積み重ねたちっぽけな歴史を、 更にちっぽけにして行くようで、

あ、そうだった。

僕は知っていたんだ。 僕が知っていたという事を。

切手を貼った紙切れを、赤い箱に入れるだけで、君の許に届くという事を、 奇跡では無く現実として、偶然でな無く当然として、 簡単に受け入れられているのに、 この事実を、受け入れられずにいたのは、 きっと僕が子供だったんだからと、自称大人の大人が云う。 けれど大人の云う事なんて、結局嘘ばっかりで信用できないから、 そんな大人の云う事なんて、全然信じる必要なんて無いんだよと、 自称大人の大人が云った。

人に話すだけで消えるような不平不満なら、 僕が幾らでも聞いてあげよう。 ハンカチで拭うだけで消えるような悲哀愁嘆なら、 僕が代わりに泣いてあげよう。 だけどそんな事で消える事が無いから、 殻に閉じこめたまま、こらえ切れずに泣き出すんだ。

僕が何かを生産して来たんじゃ無い。 この涙にしても、実は僕の作った物じゃ無い。 人間には限られた量の涙が初めから与えられていて、 それを人に押しつけて、それを押しつけられて、 どんどんと涙を流通させて行く。 人は誰しも弱くて、受け取った涙をさっさと処分しようと、 急いで周りの誰かに押しつけてしまうものだから、 涙は勢いを増しながら、量は一定であるのに、 小川のせせらぎも滝として破壊神へ成り上がるように、 加速度を増して涙は血の色に染まって行く。

僕が亡くなれば、魂に蓄積された赤い涙が、 世に放たれ、更に勢力を増しながら、 苦しみを増産する事になるだろう。 増えもせず減りもしないそれは、 しかし速さを増しながら、 人を破綻の時へと導きつつあり、 それを知りながら、寧ろ知っているからこそ、 破綻という涙の爆発に恐怖する余り、 目先の愉楽に悩殺されるばかりで、 愉楽の反粒子たる悲痛に目を背け、 本来の機能とは違った形で、 淫欲のままに性器から涙を流し流される。

僕はただ、この悲傷に別れを告げたいだけなのに、 僕の哀哭は消える事なく共鳴し続けるだろうから、 逝けない。逝きたいのに、逝けない。 魂の解放は哀傷の解放だから。

……光に照らされた可愛い悪魔が、闇に沈んだ醜い天使を救う。

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制作・著作/香倉外骨  Since 2003/06/22
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