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正義よさらば

善とは何かと問われても答えにくいだろう、一日一善の難しさの一面である。対して悪とは何かは容易に想像が付く、悪がはっきりしているから、己の欲せざる所人に施す事なかれ、に説得力が宿っている。

つまり悪とは自己の視点で述べる事が可能である。凡そあまたの宗教、あらゆる道徳、いずこの法でも禁ぜられている行為に、殺人がある。殺人が悪と見なされる説明として、死に対する恐怖が挙げられる、それだけ解説し易いし合意が得られるのである。

尤も問題もある。この世には戦争と称して「正義」の殺人が堂々と行われ、死刑と称して「正規」の殺人がひっそりと執り行われている。また死にたくないから殺すな、という説明では、自らの命が危機に瀕すれば殺人も構わない、などという暴論を引き起こす危惧がある。らなきゃ殺られる? そりゃ違うだろ。殺人が悪であるのはひたすら定言命法による所であって、人は死にたくないから殺人を起こさないので無い、そもそも人を殺すという行為その物に対して根源的な恐怖心を抱いているのである。

兎も角も殺人の禁止は、己の判断基準の枠組みに入っているから分かり易い。たとい相手が死を望んでいたとしても、悪は悪なのだ。

ところが殺人を反対にして、救命が善かと云えば、一概には云えない。ひょっとすると相手は死を望んでいるかも知れない、余計なお世話だと感ずるかも知れない。善かれと思ってした事も迷惑である畏れがある、何故なら善悪の判断は相手に委ねられているのだから。だから我々は善とは何かという質問の困り果てゝしまうのだ。

今は昔、女神転生というRPGをやった事がある。その二作目は原作から離れてしまったものゝ、ひどく深い、かつ重い内容であった。神も悪魔も仲魔にして、邪教の館で合体させる、それだけで非人道的なシステムであるのに、更に正義とは何かを強烈に問い掛けて来た。つまりこの世に絶対的な正義も無ければ、同時に悪も無い、ドラクエであればバラモスに当たるだろうか、大ボスの堕天使ルシファーでさえ交渉によって仲魔になるし、果てはY.H.V.Hまで殺めてしまう。その名は唯一神ヤハウェ或いはエホバを表す神聖四文字テトラグラマトン、そう、神は死んだ。

スーパーファミコンになって登場した真女神転生では、この正義の軸をシステム上に鮮明にした。秩序を重んじるLAWと対する混沌と創造のCHAOS、この軸上に揺れ動く主人公。同時に秩序構築を標榜するメシア教と、カオス世界に憧れるガイア教の宗教対立でもある。一見するとメシア教が現実に近く尤もらしい、魂の安寧と神の祝福を信じ、救世主により秩序が復活すると予言する、けれど秩序の究極的な世界観、選ばれし者のみ暮らす神の千年王国という示唆に、我々は命の粛清に震撼する。そこまでしなければ平和など来ないのかも知れない。ロー・ヒーローは死して尚世界の安寧を願い、カオス・ヒーローは自ら悪魔と合体する道を選ぶ。結局二人とも人では無い存在へと変貌した事が印象的である。狭間で私は何を為すか。

私には神魔と対等に渡り合えるだけの強靱さが備わっている。彼らと会話して仲魔にする悪魔召還プログラムも持っている。けれどそんな人間は私だけじゃ無い。神の名の下に人心を惑わす者、悪魔どもを使って人間社会を征服せんとする者、人間は強く危うい。「正義」の名にし負う行為に、あに中庸なる道を進んだ試しがあったであろうか。

お願いだ、君の正義を、押しつけないでおくれ。


制作・著作/香倉外骨  2005/03/15初出
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