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霧の立山

今年の夏は暑かった。

八月は連日三十五度を超え、九月になってもいつまでも猛暑が続く。中旬になって、ようやく涼しくなってきたと感じながら、温度計は今だ三十度を上回っている。

それで避暑の為、という訳ではないが、今更ながらの夏休み、この連休に思い立って立山黒部たてやまくろべアルペンルートに行くことに決めた。気儘勝手な独り旅である。

午前五時半、小雨降る富山立山公園線を立山駅に向かって走る
GF1, LUMIX G 20mm, 1/30s, F1.7, ISO100

九月捨六日の木曜、夜九時過ぎに家を出発する。夜の高速を飛ばし、途中参捨分程の仮眠を取りつゝ、北陸道富山インターを降りる。そこから下道、小雨が降る。天気予報では曇りのち晴れと云っていたので大丈夫、と自分に云い聞かせながら、夜更かしと早起きをないまぜにした心持ちで車を前へ前へと走らせる。

捨七日、午前六時、立山駅到着。

こゝより先、アルペンルート内はマイカー乗り入れ禁止。ボッタクリ感の強い観光路線を使う必要がある。尤もこの立山黒部アルペンルートが余蔭よいんにより、誰しも手軽に標高二千五百メートル級の高地へと立つことができるのである。

立山駅からの立山ケーブルカー、本日の始発は七時より。既に数人が駅周辺をぶらぶら時間待ちしている。さすがに平日である故、争奪戦ということになるまい。

駅売店の前に黒板があり、六時現在の天候が掲示されていた。本日の室堂むろどうは霧、気温四度、視界不良。聞く所によると視界は凡そ百メートルしかないらしい。折角の絶景も見えなければどうしようもなかろう。残念である。たゞ今更引き返す訳にも行くまい。軽装なれど進むしか道はない。

七時になってケーブルカーに乗り込む。意外と混んでいて座りきれない。勿論、最初から座らず最前列、運転席の横に立ち、進む先を眺める。僅か捨分足らずで五百メートルを登る。

美女平びじょだいらから立山高原バスに乗り換えて、凡そ五捨分のバス移動である。ブナを初め、鬱蒼と茂る喬木きょうぼくの中を、ゆっくりとしかし力強くバスは登り続ける。

途中まで見慣れた山の風景であったが、高度と共に次第に様子が変わってくる。喬木が姿を潜め、灌木かんぼくが広がる。視界が開け、これまでに見たことのない草木が並ぶ。所々に岩肌が見え、こゝが高山であることを知らしめる。

やがてバスが室堂ターミナルに到着。下車しようと皆が立ち上がると、悪臭が鼻を突く。誰か立った勢いで屁をいたかと思い、独り何となくほくそ笑む。ところがバスを降りても匂いは減るどころか強くなってくる。室堂は臭かった。なぜか屁で充満しておる。なるほど高山とはかように匂うものなのか。知らなかった。

駅構内から外を覗いてみる。まことにもって視界百メートルは本当であった。霧が為に近くしか見えない。おまけに小雨まで降っている。こりゃ寒い。厳しい環境である。

ひとまずターミナルに取って返し、立山そばにて立ち食いそばを食って腹拵えする。熱いのを期待したのに生ぬるい。ぬるいそばなんぞ旨くない。そうか、気圧が低いために沸点も低いのかと独り合点する。いかにも高地が料理の不味くなる訳だ。

さてと気合を入れてウインドブレーカーを羽織り、帽子を深々と被って再び摂氏四度の世界へと旅立つ。

小雨降り、霧が立ち籠めて視界の悪い室堂ターミナル周辺、海抜2450m
GF1, LUMIX G 20mm, 1/1600s, F2.5, ISO100

愛機GF1を取り出す。何となく調子が悪い。普段よりオートフォーカスが迷う。画面が一瞬フラッシュする。明らかに挙動がおかしい。やはり防滴でないのに小雨の中で使っている所為であろうか。ひょっとしたら壊れる前兆なのかも知れぬ。しかし撮らずにおられぬ。防滴防塵のカメラが欲しいと今思っても始まらぬ。こゝにはGF1しかない。されどこゝには撮るべきものがある。ならば意外と丈夫であるとの前評判を信じて撮り続けるしかあるまい。勿論、濡れゝば拭きつゝであるも、拭くものすら湿っている故、水滴を伸ばしているような感じになってしまう。致し方あるまい。いやいや、どうも挙動の常ならぬは霧の所為らしい。このもやとした景色が焦点の定まるのを妨げているようなのだ。まるで白一色となればどこにピントを合わせて良いか分からぬであろう。うむ、機械は大丈夫、ちゃんと動いている、信じている、信じている限り動き続けると信じている。

機械は動くがこの身が動かなくなってきた。濡れた上にこの気温である。手がかじかんで思うように動かぬ。そう思うと余計に寒さを実感してしまって、体中が縮こまって震えてくる。寒い。もう諦めようかと挫けそうになる。ミクリガ池にしても向こう岸が見えぬのだ。晴れていれば山が湖畔に映って美しかろうに。

みくりが池温泉の建物が見えてくる。余りに凍えておったので一旦建物の中に入る。小雨を通り越して結構な降り具合になってきている。諦めて帰ろうかとぼんやり外を眺める。

屋根より落ちる雨滴の向こうに地獄谷があるのだろう。引き返すは易しい。されど今一度こゝに来るは易しくない。無論、引き際も肝要であろう。整備されていると云えど山に相違ない。常に危険と隣り合わせ、この軽装ではいかにも軽々しい。しかし嵐という訳でもない。寒いと云っても九月、氷点下でもない。しばし休憩して震えも止まったし、もうちょっとだけ歩いても良いかも知れない。

そうだ、せめて地獄谷をば見なけりゃならん。ちょっと先まで行って引き返せば良かろう。

気合を入れなおして軍手をはめる。シャッターは切りにくかろうも少しは凍えから救えるかも知れない。何もないより幾分か増しだろう。いざゆかん、地獄谷。

果てしない石段を下った先に見える地獄谷、草木の生えぬ白い地肌より有毒ガスが噴気する
GF1, LUMIX G 20mm, 1/1600s, F2.2, ISO100

火山ガスが濃くなっているとの注意報が流れている。緊張のしながら石段を下り始める。果てしない下りである。下界に見えるひょうひょうとした土地が地獄谷であろう。正に地獄である。そこに草木は生えない。白い地肌が見える。何やら噴気している。火山ガスであろう。猛烈な臭気がする。なるほど室堂に降り立ったときに屁の匂いと思ったはこれか。地獄から漏れ出し漂う臭気であったのだ。

下った先は本当にごつごつとしていた。白い岩、白い砂利しかない。地面から白いガスが噴き出ている。結構な勢いで噴気している。何だこゝは。硫化水素ガス検知器が立てられている。これで警報を発しているのであろう。

更に進めば「火山ガス注意、この先ガスが濃くなっておりますので、すみやかに通り抜けてください。」と書かれた看板に出くわす。思えば先程より人に会っていない気がする。前から来る人が居ない。何となく孤独感が恐怖感に変換される。看板に促されて早足になる。目に見えてガスが濃い。噴気口が幾つも連なってそこかしこから噴き出ている。

水たまりがある。或いは湧き出ているのか。白く濁った水たまりである。温泉かも知れない。ボコボコと沸騰している。下からガスが出ているのだろう。正に地獄絵図が如く。

だんだん道が悪くなってきたがこゝまで来たら進み続ける気になってきた、地獄谷を抜けるとこれまた不思議な風景に出くわした。

白の大地を白の小川が流れ、苔のように緑が侵食している。

地獄谷を抜けると殺伐としつゝも力強い風景が待っていた
GF1, LUMIX G 20mm, 1/1600s, F2.2, ISO100

雷鳥沢ヒュッテを横目に振り返ると、広大な大地が下に広がっていた。丘と丘が交わり小さな稜線を形作っているを見下ろす。黄の草に褐色の大地が覗き、緑の木々がそっと味付けする不思議な色合い。

下にキャンプ場らしき平地が見える。雄大さに方向感覚が奪われ、幾つもの分かれ道にどちらに進めば良いか少しばかり迷う。これより深入ってはさすがに戻るのに難儀しそうなので、ぐるっと回って戻るよう、右へ右へと進み、どこまで続くか分からぬ石段を登り始める。いったい何段あるのであろう。

ふと振り返ると落ちそうになる
GF1, LUMIX G 20mm, 1/800s, F2.0, ISO100

木組みの階段の崩れた跡がある。この急斜面、ちょっとした雨でも崩れてしまったのだろう。崩れた所はそのまゝにされ、代わりに石畳の道が造られている。

ひたすら上り。息が切れ、足がガクガク震える。意識してゆっくり登る。見上げるとくらくらする。ふと振り返って見下ろすと、ずっと下に下界が広がっている。高所に居るような気がして、ぐらぐらと怖くなり、まるで落ちてしまいそうな不安が広がる。

上り切ると斜面を横切るように道がある。確かにきっちり整備されている故に不安になる必要はないのだろうが、急に前後の景色が狭まり、左はどこまでも急斜面で落ちたら止まれそうになく、右には崩れた木々が転がっていて落ちてきたら一溜りもなく、加えて霧で視界が悪い。そして人の気配がぱたりと止んだ。孤独が不安を大きくし、早歩きになる。早歩きが息を切らし、早歩きで踏み外していかんと恐怖を呼び、ますます不安を膨らます。

いったいどこまで歩けば良いのだろう。かなり歩いたがまだまだ戻れぬのか。進んでいるのか戻っているのか。ひょっとすると道を間違っているのか。とすれば引き返すべきか、或いは進むべきか。

孤独と不安の先に力強い道標
GF1, LUMIX G 20mm, 1/1600s, F2.2, ISO100

しばらく進むと霧の向こう側に大きな建物が見えた。廃墟のようにも見えるが明かりが付いている。その下にトイレと書かれた小屋がある。トイレだ。そう、トイレ。

さっきからずっと小便がしたかった。立小便が恥ずかしい訳ではないけれど、人の糞尿がこの弱い生態系を破壊することがあるらしい、ということで結構な道のり我慢して来た。故にトイレが見えたことは孤独を抜けたと共に安心を与えてくれた。

しからばトイレ小屋は一種の天恵にほかならず、トイレ利用料百円の張り紙を実直に守り、箱に百円玉を放り込んでから、便器に小便を放り込む。

よほど安堵が大きかったのか、疲労が意識される。喉が乾いている。意識されてしまっては手遅れという説もある。ちょっとばかし酸欠かも知れない。仮にも高山、しかもかなりの階段を上がってきた。休む場所はないけれど、雨に濡れつゝも少しばかり休もう。体は冷えてしまうけれど倒れてはもっといけない。

立ち止まって疲労を再認識する。顔が冷たく固まってほの赤くなっている。そうだ深呼吸しよう。冷たい空気を胸いっぱいに吸い込む。帽子から雨が滴る。カメラから雨が滴る。なかなか厳しい環境だな。休憩がてら近くの植物を撮影する。


GF1, LUMIX G 20mm, 1/640s, F1.8, ISO100

GF1, LUMIX G 20mm, 1/400s, F1.7, ISO100

GF1, LUMIX G 20mm, 1/640s, F1.7, ISO100

息も整い、体を冷やし過ぎても良くないと、ゆっくり歩き始める。

茶褐色の寂しい草地の間に歩道がある。石畳はない。土が剥き出しで、雨でぬかるんでいる。左側に土嚢どのうが並べられていたので、こゝなら大丈夫かと乗ってみると、これまたぬかるんでずぶずぶ靴がぬめる。石の上を探して歩いてみたり、覚悟を決めてずぶずぶ進んだり、たゞぬかるんでいるというだけで距離以上に疲れる。

どうせずぶ濡れ、ゆっくり歩こう。転んで泥んこになるのだけは避けたい所。雨を楽しみつゝ少しずつ進もう。


GF1, LUMIX G 20mm, 1/1300s, F2.0, ISO100

GF1, LUMIX G 20mm, 1/800s, F1.7, ISO100

GF1, LUMIX G 20mm, 1/40s, F9.0, ISO100

しばらく進むと工事現場に出くわした。歩道を造り直しているのだろう、仮設の足場が組まれてその上を歩く必要がある。ふわふわとした足場の鉄板の歩き心地、斜面に沿って作られているが故に空中散歩のような趣なれど、落ち着かないので逃げるように早歩きになる。こんな所の工事は大変だろうな。厳しい環境の上にそもそも資材の搬入が難儀であろう。

リンドウ池という看板が見える。看板の先は霧しかない。想像するにその先には池が隠れているのだろう。寧ろ霧が濃くなってきているように感ずる。

軽快に歩き続けると、みくりが池温泉の建物が見えた。ようやく一周まわって戻ってきたのだ。何だかんだと弐時間ほど歩いたことになる。体も冷えたことだし、こゝまで来たのだから温泉に入るしかない。日本一高所にある温泉の肩書きにそゝられながら入れば、白く濁った気持ちの良い温泉が待っていた。あゝ生き返る。幸せである。

建物内で昼食にする。レストランみくりで蜃気楼御膳を頼む。げんげの唐揚げにちょっとした刺身、ご飯、味噌汁の質素な定食である。これで千二百円はいかにも高い。尤もこの秘境を思えば確かに高いのも仕方ない。少なくとも室堂ターミナルからこゝまでは歩いてしか移動手段がないのだ。緊急時も車両の進入は一切できぬ場所、こゝで望めばビールが手軽に飲める、そのことの方が奇跡である。

で蜃気楼御膳のお味の方は、まあ、まあまあ、かな。あったかい味噌汁が一番美味しいかも知れない。この味噌汁、けっこう熱くて良い。今思うと朝の生ぬる蕎麦はやっぱりぬるかった。決して沸点が低い所為ではなかく、単にぬるかったのだ。

しばしぼんやり休んだのち、室堂ターミナルに向かって歩き始める。

雨が止んでいる。今更ながらちょっとばかし霧が晴れてきている。と浮かれて歩き始めると、また降ってきた。もやが掛かってきた。つくづく雨男である。

室堂ターミナル周辺の広大な大地は、晴れていればさぞかし美しかろう。雄大に広がる向こうに稜々と峰が連なっているのだろう。想像するだけで見惚れてしまう。

室堂ターミナルの手前、霧の向こうにはどんな世界が広がっているのだろう
GF1, LUMIX G 20mm, 1/1600s, F2.5, ISO100

室堂ターミナルに着き、帰り支度を始める。

あゝ、美しかった。

晴れていればもっと良かったのに。

またいつか、来るであろうな。


制作・著作/香倉外骨  2010/09/26初出
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