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タングステンでかたどられた妖精

積ん読の中から「ヴァンパイヤー戦争ウォーズ」なる本を手に取って、ぱらぱらと頁をめくったら、夫というのは面白くない男と同じ意味の言葉だ、なんて発言が目に入った。まあそうだろう、しかし他人の夫は決して面白くない訳では無い、寧ろ却って魅力的でさえある。素敵だと信じた相棒も結婚したらどうも色褪せてしまう、それはもっと別の所に問題があるのかも知れない。


ずっと初期、それはたゞ楽しさだけが感情を支配する。ピアノが音を発するだけで満足し、たゞ世界に挨拶するだけのプログラムに興奮する。だけどそんな時代は星の瞬きよりも儚い。

やがて計画を立てられるようになる。あゝしようこうしようと悩み、設計図を描き、構想は果てしなく、思春期に入った少女の乳房の如く、膨らみ続ける。胸は期待に溢れ、箸が転んでもおかしい年頃、もう夢中で思惑するし、この頃になれば実現するだけの技術も得ているのである。

立派な構想、緻密な設計、これが整えば作品は殆ど完成したと云って良い、少なくとも脳内には既に出来上がっている。がそこから先、実装の段階は、なるほど技術的には可能であろう、しかし凡そ退屈で長い労働に挫折する。設計図通りに組み立てゝ行くだけなんて、たゞ時間だけが食われる下働き、構想通りに動いて当たり前、ならば思うように成らない時の不満と云ったら! 義務か使命か、殆ど後始末のように作業が続く。

そうだな、子を作ろうとは夢に思わぬのに、辞典やらを片手に子の名前を考える、のは楽しい。名付け行為の魅力、こんな名前が素的だなと馳せるだけで、楽しい、たぶん自分の名前は特別であるべきなのに、耳慣れすぎてありふれて聞こえる、この不満の破壊こそ。

総領の娘は我が家を席巻し、全ての権利を手中に収めた。何故なら丸い顔は不憫な程に可愛く、無垢な泣き声が全てに許しを与えてしまう。母乳をまさぐる小さな唇も、哺乳壜にふくらす笑顔も、涎で汚れた拳も、時にする小さなくさめ、泣き叫び、或いは笑い、いつしか這い這いから立ち上がり、やかな城館を探検し尽くす。いつまで一緒に入浴できるかなどと罪の無い心配をしては、常に高価な衣服を纏わせて飾り立てゝいる。次はピアノでも習わせようか。

ところが現実はどうだ。悪い友達と夜遅くまでどこぞでほっつき周り、へその所にピアス、タトゥーとか云って奇妙な紋様を彫りつけて、果ては電話があれば警察からと来たもんだ。これで行く所まで行ったかと変な安心を感じていたら、子供が出来た、と追い打ち。思考は停止して、もう何をどうしたら良いのか、分からなくなる。

タングステンは鉛の五割も重い。水より軽いはずの体が、溶けたタングステンの海に沈むは、娘十七歳の、春。

死に瀕したのか、過去の記憶がび醒まされる。

幼い頃、あらゆる物は壊れやすく、たった一度ひとたびかたちが崩れてしまえば、もう復元など出来ないと信じていた。砕いた石は小石となり、割れたガラスは素手を傷つけ、切った紙は屑入れへ。幾ら綿密に組み合わせて糊で張ろうと元には戻らない。だとすれば数多あまたの造物は、崩壊の運命を辿っているに過ぎない、のでは無かろうか。

この星系に君臨する太陽も、遙かで煌めく恒星も、自重に押しつぶされる原子のともし。ところがこの小さな星に、堆積岩と呼ばれる集合の存在するを、小学校教諭がさも発見者だと云わんばかりに宣言した。砂の再び巌と成る、二つの物がいつしか不可分と成る、不思議より寧ろ恐怖の念を感じ、彼が吹聴を疑った。

けれど本当はかたちが有る事こそ特殊なのだ。どんどん薄まって平坦になって行く宇宙に於いて、明白な境界線でもって自己を主張し、客観的な状をそこにとどめている、これぞ奇跡と云うべきであって、ちょっと気を抜けば忽ちに融合して集合に帰するであろう。

重金属の波に飲まれつゝ、見た所娘と同年ぐらいの妖精を目にした。うん、妖精? 或いは悪魔、天使、食を求める妖怪、魂の果てた精霊、弾圧された魔女、恐ろしい般若、人に似ているが人とは異なるかたちを有す。はっきりしないが、妖精に睨まれたおかげで走馬燈から戻って来たのだけは、確かだと思わるゝ。

険しい表情の儘の雪女は、涙をたたえて「そんなことも忘れたのか」と口籠くちごもった。

知らない、若しくは忘れてしまった、ひどく仕合わせで、同時に残酷な……。

女はどちらを望むのだろう、思い出して欲しいのか、忘れてしまった現在か。たとい忌まわしい記憶をくしてしまったとしても、やはり元には戻せない、過去は時に、獰猛な牙を剥いて鎌首をもたげるであろう、魂をり合わせる度に痛みが湧き出てくるであろう、少なくとも我ら二人は、今も相変わらずかたちをこゝにとどめているのだから。

詮ずるに我らは一粒の麦にはれない。このたった一つのたわい無いかたち固執こしゅうし、不確かな豊作よりも可能性の保留に全力を尽くす。されどこれを枉惑わわくとたれが云えよう、いっそのくされに、この身をかたどる覚悟、重く、硬く、安定した、穢れた狼に魂を売り渡して。これ程までに数え切れぬ生き物を殺し傷つけて来たのだ、今更許しを請うて何になる。


本当は何を望んでいたのか、ぬくもりが欲しいと云っていながら、強く抱きしめられた所で、果たして満足していたか。つまり、

音が堆積して和声を奏でる。思い出が連なって旋律を描く。十七歳の瞳から雫が垂れて大地に広がった。重い石に縁取られた妖精が熔けてゆく、哀しくも恋しい、美しく幼い歌に——。


制作・著作/香倉外骨  2005/04/21初出
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