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初めての死

そのとき私は死ぬことが初めてだったので、どうすればよいのか対処の仕方が分からず、本当に不安であった。こんなことならもっと前から入念に調べておくべきだったと今さら後悔しても遅い、調べる時間も段取りを組み上げる力もどうやら残っていない。

これまでの人生、緻密な準備と行動により完璧の域に至らずとも無難な所を歩いて来たつもりである。いざこゝに際して右往左往するとは何たる失態、最期になって最初の失敗を犯すとは思いもせなんだ。

記憶にある最新の視界は、私に向かって突っ込んでくるトラックで埋め尽くされていた。もうその瞬間に悟った、と同時に思い至ったのは、先月勧誘された生保に入っていれば儲かったのに、なんて仕様もないことでしかなかった。つくづく自分が小さい奴だと思う、応用の利かないひょっとこである。この期に及んで保険の心配など、当たらぬ宝くじの使い道を心配するより不毛だろう。それともやっぱあれか、簡単に申込書に判を押した同僚の楠部は、あのひつこい勧誘に屈した訳でなく、人が必ず死ぬことを理解したいたとでも。

考えてみれば楠部は面白い奴だった。一つ年上だけど雰囲気が年下じみていて、仕事もまあまあ、人付き合いもまあまあ、でもなんか失敗しても憎めない奴なんだよな、皆に愛されている、家庭にも恵まれている、あいつの娘は幾つになったけか、何だろう幸せそうな奴だ。あゝ、ひょっとすると子供が居るから保険に入ったのかもな。

私には子供が居なかった、できなかった。五年できなかったらいゝ加減、諦めが付くというか、無理なんだろう。特段、欲しかった訳でもない、たゞ作るもんだと思っていた、できてしまうもんだと思っていた。まさか遣り方がまずい訳ではないだろうが、妊娠しないんだから仕方がない、とやかく云う世間のいざこざを無視してしまえば、寧ろ仕事に打ち込めて良いぐらいだ。

そうか、結婚して五年になるのか。小百合は今でも美人である。ちょっとばかし化粧が濃くなったけれど、色気は以前にも増して漂わせている。何と云っても職場の花形で独身男性の憧れの的だったもんな。見事に射止め切った訳で、公私ともに出来る男は違うのだ。

子供ができないのを小百合の所為にしたこともあったけれど、ひょっとすると私に問題があったのかも知れない、悪いことをした。いやでも結果として良かったかも知れない、この年で未亡人になってしまうのである、まだ子供がいないだけ増しというもの、あの美貌ならば転婚相手に困らぬであろうし、種が良ければ妊娠の可能性だってある。保険に入っていなかった点は申し訳ない、でも死んで役に立つことってあるのかもなあ、何かそう考えたら、それだけで充分な気がしてくる。

小百合と出会えたのも結婚できたのもこの会社に入ったからだと思う。たゞみんなが就職活動し始めた大学三回生の時に、そこそこ給料が良くて将来性も悪くない所を手当たり次第に受けて、業界三位の大手と呼ばれる会社に入ることができた。仕事の中身なんて知らなかったし知ろうともしなかった、別に気にすることではないと。なぜなら、好きなことは仕事にするもんじゃないと、趣味を仕事にすると趣味でなくなると、不幸になったり或いは稼げなかったりすると信じていたので。アニメーターは極貧でしかない、音楽やってますって人は遊んでますって云ってるようなもんだ、エロゲー作ってますって世間に胸を張れるだろうか、好きで始めたことが仕事になっても好きでいられるだろうか。

大学に行ったのも働きたくなかったという消極的な理由による。少しは勉強したけれど必至になった覚えはない。そんな必要はない、もともと頭が良かったし、そもそも入れる所に入れば良いと考えていた。つまり十の力の者が無理して十二を目差すから苦しかったり失敗したりするのである、十の所に無難に進めば結局は物事がすんなり進んで幸せになれる、もっと手を抜いて八の所でもいゝぐらいだろう。だってそうじゃないか、歯を食いしばって十二になった所で、元より二十の者に敵う訳でもなく、ひとたび十二となったばかりに必至で十二であり続けなければ落第者の烙印を押されてしまうのである。本来の十に戻ったゞけなのに落ちこぼれ扱いされるぐらいなら、初めから十の所に居れば良い、十の所でたまたま十一の力が出たら、それはそれは拍手喝采されるであろう。

いつも、いつも、やりたいこと、が欠如していた。先生も教科書も生きがいだとか人生設計を考えなさいと云いながら、私がどういう道を進むべきか、ちっとも教えてくれなかった。

死ぬのが初めてならば、生まれきたのも初めてなのだ。どうすれば良いか分かる訳がない。ひたすら調べて中庸の道を見いだして無難に歩いてきた、この自分を誇りたい。故に後悔などしていない。歩き方は正しかったのに、こゝで行き止まりになるとは、予想だにしなかった。やればできると云っても、やらないんだったら、できないってことなんだろう。引き返そうと思っても一方通行の標識が見える。やり直したところでやっぱりできないんだろう。標識に従い続けた人生をこゝで逆らうなんて往生際が悪い。もうできない。もう行き止まり。初めて死ぬ。初めて生きる。小百合を残して。叶わぬ夢を残して。

……母の息む声が聞こえる。やがて私は生まれる。


制作・著作/香倉外骨  2008/03/02初出
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